ひとりひとりのやりたいこと

昔、ある人に言われて衝撃を受けたこと。

「無理に話そうと思わなくていい、コミュニケーションをとろうとしなくていい。一緒に隣に座ってテレビを見るだけでも関係性は育っている」

会話が盛り上がることが、必ずしも関係が深いということではない。
有意義な時間とそうでない時間は定義できないし、価値に差があるわけではない。のかも。

その考え方を知るまで、たとえばものすごく簡単に言えば「ゲームばかりしているなんて・・・!もっと自然の中で遊ぶのが善!」みたいな概念が自分の中にも、確かにあって。

でも、それって、大人側が勝手にもっている美しい(ぽい)無駄じゃない(ぽい)生きる力を育む(ぽい)時間の過ごし方で、本当は、ダラダラとYouTubeを見るだけの幸せな時間とか、家から一歩も出ずにゴロゴロしていることでできる疲労回復の仕方だって実感としてある。(実際、私は元気がないとそんな過ごし方ばかりしている!!!)

ひとりひとりのその時期やその日の状況や気分によってやりたいことって変わるのが当たり前だけど、自分じゃなくて誰かのいいと思ってることが押し付けられていることって、それによって動いていることって結構あると思う。受け取る側も、特に苦も感じず受け取っている場合もある。

「こんなことがよくない、もっとこうすべきだ!」と声を大にしていうのはとても簡単。でもそれは、そのことに気づいた人が大切にしておけばいいことであって、人に共有したり強要したりしなくたっていいこと。

もし、「この考えの素晴らしさを知って欲しい!一緒にその世界で生きたい!」って思ったとしても、相手が、本当の意味で同じ熱量をもつなんて、実感として「いいなあ」「最高!」「もっとやりたいな」って、その人自身が思うしかないのだ。

それを、思うかどうかって完全に個人の自由。だから、違うなと思えば違うことを選べる、それは悲しいことでも残念なことでもなんでもなく、どれだけ自分の心に寄り添ってすごせるか?というのを誰もがおざなりにしないようになったらいいのにな、と思う。

たとえばわたしもそうやって生きられるようになってきて、私がいいなと思うものがこの家の中にはたくさん散りばめられている。でも、それがやりたければやればいいし、やらなくたっていい。そんなゆるい場、というのが目指す形。

そういう考えになるまで、「美しいっぽい世界」をたくさん見た。そしてそれが美しいと思ったことがなくても、いいものであると信じてしまっていた。

今は、それぞれの美が、誰かを気づいたら豊かにしてるっていうくらいのほうがやさしい世界だって思うなぁ。

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